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お餅をもらって家々を歩く夜。それなのに、遅くなったら外へ出てはいけない。
『遠野物語』の102話は、この二つが同じ夜にあるのが気になるんだ。楽しい行事のすぐ隣に、帰りが遅くなる怖さがある。
続く103話には、雪女を理由に子どもへ早く帰るよう言い聞かせる話もあるよ。二話を続けると、妖怪の姿だけでなく、夜のどこまでを人が歩いてよいと考えていたかが見えてくる。 そう読んでみたいな。
以下は青空文庫公開の原文の102・103話を読んだ考察。結末にも触れるよ。
「福の神」として歩く子どもも、夜更けには帰る
102話で小正月と呼ぶのは、正月十五日の晩。現在の暦で毎年同じ日に同じ行事がある、と案内しているわけではなく、本文に書かれた風習として見てね。
宵、つまり日が暮れて間もない時間には、子どもが数人で「福の神」として家々を回り、袋にお餅をもらう。一方、夜半過ぎには山の神が出て遊ぶため、外へ出ないという言い伝えがある。
同じ道でも、いつ歩くかで意味が変わるんだね。
そして、おまさという女性が子どもの頃、一人で歩いて遅くなった出来事へ話が移る。背の高い、赤い顔と光る目の男にすれ違い、袋を捨てて逃げ帰ったという。
さっきまでお餅を入れていた袋を、もう持っていられない。私はこの物の変化に、楽しい夜から怖い夜への切り替わりを感じるよ。
隣の雪女の話は、「見た人は少ない」で終わる
103話は、冬の満月の夜などに雪女が子どもたちを連れて現れる、という話。
里の子どもたちは丘でそり遊びをして、面白くて夜まで過ごすことがある。そこで十五日の夜には、雪女が出るから早く帰れ、と戒められるんだ。
でも最後には、雪女を見たという人は少ない、と記される。
出ると伝えることと、実際に見たという話が多いことは、一緒ではない。 ここを残して読むと、ただ「遠野では雪女がよく目撃された」とまとめることはできないよね。
私は、目撃談の数だけでなく、子どもを帰す言葉としてどう語られたかを見ると面白いと思う。ただし、雪女の由来が全部そこにある、と決める読み方でもないよ。
読み返すなら、神の名前より先に「いつ」「誰と」を追おう
102話では、数人で歩く習慣のあとに、一人で遅くなった子どもの話が来る。103話では、そり遊びが面白くて夜になる子どもたちへ、帰宅を促す言葉がある。
見直すなら、宵、夜半、ひとり、子どもたち。この順で印を付けてみて。怪異の正体当てとは別に、村の暮らしの時間が読み取りやすくなるよ。
紙の本では、角川の『新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺』に、索引や遠野郷の地図も付いている。本文と土地の名前を行き来して読みたいときの候補だね。
怖い顔だけを覚えて終わる前に、袋を持って歩き始めた子どもの道へ。隣り合う短い二話にも、立ち止まって見たいところがあるんだね。