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小泉八雲の「雪女」は、『怪談』に収められた話の中でも特に知られた一編です。2025年度後期の連続テレビ小説「ばけばけ」で小泉セツと八雲の夫婦が描かれたこともあり、Xでは10月下旬にも、『小泉八雲集』を読み終えたという投稿(Xの投稿)や、松江での「雪女」をテーマにした講座の案内が投稿されていました(Xの投稿)。
一方で、雪女といえば東北や雪国の昔話だと思っている人も多いかもしれません。八雲自身は、この話を武蔵の国の農夫から聞いたと書いています。この記事では、「雪女」のあらすじと成り立ち、ゆかりの地を順に紹介します。
小泉八雲の「雪女」はどんな話?
まずは物語そのものを、田部隆次訳に沿って確かめます。前半の吹雪の夜と、後半のお雪との暮らしに分けて読むと、約束がどこで結ばれ、どこで破られるのかがよく見えてきます。
吹雪の夜と渡し守の小屋
物語は「武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた」という一文から始まります。茂作は老人で、その年季奉公人である巳之吉は18歳の少年でした。2人は毎日、村から約2里離れた森へ一緒に出かけていました。英語の原文では「about five miles」と書かれています。
森へ行く道には大きな河があり、渡し船がありました。そこにはたびたび橋が架けられましたが、洪水のたびに流されてしまいます。河があふれるときは、普通の橋では急流を防げないと書かれています。この渡し場が、のちに舞台探しの手がかりの一つになっていくのです。
ある大層寒い晩、2人は帰り道で大吹雪にあいます。渡し場に着くと、渡し守は船を向こう岸に残したまま帰っていました。泳げる日ではないので、2人は渡し守の小屋に避難します。小屋には火鉢も火をたく場所もなく、窓のない一方口の二畳敷きでした。2人は戸を閉めて蓑を着て横になり、初めは嵐もじきに止むと考えていたのです。
老人はすぐに眠りましたが、巳之吉は長いあいだ目を覚ましていました。河はゴウゴウと鳴り、小屋は海の上の和船のように揺れて、ミシミシと音を立てていたとされます。空気は刻一刻と冷たくなり、巳之吉は蓑の下で震えながら、とうとう寝込んでしまいました。
顔に雪がかかって目を覚ますと、小屋の戸は無理に押し開けられていました。雪明かりの中に、全く白装束の女が見えます。女は茂作の上にかがんで息を吹きかけ、その息は明るい白い煙のようでした。それから巳之吉の上にかがみ、顔がほとんど触れるほど近づきます。巳之吉は、女の眼は恐ろしかったものの、大層きれいだと気づきました。
女はほほえみ、「あなたは若いのだから」気の毒に思い、もう害しはしないとささやきます。ただし、今夜見たことを誰かに、たとえ母親にでも話したら、自分にはわかり、そのときは殺すと告げて出て行きました。巳之吉が茂作の顔に触れると、それは氷のようで、茂作は固くなって死んでいました。
夜明けに吹雪が止み、戻ってきた渡し守が、茂作の凍えた死体のそばで気を失っている巳之吉を見つけます。巳之吉は長く病みましたが、白い女のことは誰にも話しませんでした。元気になると、また毎朝独りで森へ行き、夕方に木の束を持ち帰って、母がそれを売る暮らしに戻ったのです。
お雪との結婚と約束の結末
翌年の冬のある晩、巳之吉は帰り道で、同じ道を行く若い女に追いつきます。背が高くほっそりした、大層きれいな娘で、声は歌う鳥のようだったと書かれています。娘は名を「お雪」と名乗り、最近両親を亡くしたこと、江戸に貧しい親類がいて、女中の働き口を見つけてもらうつもりであることを話しました。
2人は並んで歩くうちに互いを気に入り、巳之吉はお雪に家で休んでいくよう勧めます。巳之吉の母はお雪を歓迎し、その立ち居振る舞いのよさから、江戸への旅を延ばすように勧めました。自然の成り行きとして、お雪は江戸へは行かず、「お嫁」としてその家にとどまることになります。
お雪はとてもよい嫁でした。5年ばかりのちに巳之吉の母が亡くなるとき、最後の言葉は嫁への愛情とほめ言葉だったとされます。お雪は男女10人の子どもを産み、子どもたちはみなきれいで色が非常に白かったそうです。村の人々は、お雪を生まれつき自分たちと違う不思議な人と考えていました。多くの農家の女性が早く年をとるのに、お雪は10人の母となっても、初めて村へ来た日と同じように若く見えたからです。
ある晩、子どもたちが寝たあと、お雪は行燈の光で針仕事をしていました。巳之吉はその顔を見ながら、18歳のときに出会った不思議な出来事を思い出し、そのときの女がお雪にそっくりだったと話し始めます。お雪は仕事から目を上げずに、その人の話をしてほしいと頼みました。巳之吉は渡し守の小屋の夜のことを語り、あれが夢だったのか雪女だったのか、今もわからないと打ち明けてしまいます。
お雪は縫い物を投げ捨てて立ち上がり、巳之吉の上にかがんで「それは私、私、私でした」と叫びました。一言でも話したら殺すと言ったはずだが、そこに眠っている子どもたちがいなければ今すぐ殺すところだった、と続けます。そして、子どもたちを大事にするように、もし子どもたちに不満を言われる理由があれば、それ相当に扱うと言い残しました。
叫んでいるあいだに声は細くなり、風の叫びのようになっていきます。お雪は輝く白い霞となって屋根の棟木の方へ上り、煙出しの穴から震えながら出て行きました。そして二度と姿を見せなかったと物語は終わります。
Xでは、老人は殺したのに若い巳之吉は見逃し、人間として彼のそばに来たところにこの話の深みがある、という読み方も投稿されていました(Xの投稿)。殺さなかった理由が「若いから」と「子どもたちがいるから」の二度語られる点に注目すると、怖い話であると同時に、別れの話としても読めるのです。
『怪談』の中で雪女はどう生まれた?
次に、「雪女」が収められた『怪談』がいつどのように出版されたのか、八雲が序文で雪女について何と書いたのかを見ていきます。
1904年の『怪談』と八雲
小泉八雲記念館によると、八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーンは、1850年6月27日にギリシャ西部のレフカダ島で生まれました。父はアイルランド出身の軍医、母はギリシャ人です。2歳でアイルランドに移り、イギリスやフランスで教育を受けたあと、19歳でアメリカに渡って新聞記者として活躍しました。
1890年4月4日に横浜に着き、同じ年の8月には松江の島根県尋常中学校に英語教師として赴任します。その後、熊本の第五高等中学校や神戸クロニクル社を経て、1896年9月から帝国大学文科大学の講師として英文学を教えました。この間の1896年には、松江の士族の娘である小泉セツと正式に結婚して日本に帰化しています。記念館の年譜では、帰化の手続きが完了して「小泉八雲」と改名したのは1896年2月10日でした。
代表作『怪談(Kwaidan)』は、1904年4月に、ボストンとニューヨークに拠点を置くホートン・ミフリン社から出版されました。八雲は同じ年の9月26日に心臓発作で亡くなり、54年の生涯を閉じています。記念館は、2024年が『怪談』出版120年と没後120年の節目だったとして、各地の記念事業を紹介していました。
記念館の解説によると、『怪談』には、原話をもとにセツが「ヘルン言葉」で語って再話された物語作品と、エッセー、昆虫に関する随想の3種類があわせて20編収められています。なかでも「雪女」や「耳なし芳一」は、作者以上に作品の知名度が高いと書かれています。シンプルな文体で怪奇の美と恐怖を語る同書は、多くの言語に翻訳され、世界中で読み継がれているそうです。
八雲がこの本を書いたのは、新宿西大久保の書斎でした。ただし、「雪女」や「ろくろ首」などの妖怪に民俗学者として興味を示したのは松江時代のことで、その意味で松江は「怪談のふるさと」だと記念館は説明しています。八雲は東大の講義で、超自然の文学には一面の真理があり、その真理への人々の関心は変わらない、と語ったと紹介されています。
なお、日本語で広く読まれている「雪女」は、八雲が英語で書いたものを翻訳した文章です。青空文庫で公開されている田部隆次訳は、1937年発行の『小泉八雲全集第八卷 家庭版』(第一書房)を底本にしています。日本の話が英語で書かれ、また日本語に戻ってきたという流れも、この作品の面白さの一つでしょう。
序文に書かれた一行の意味
『怪談』の序文は、1904年1月20日に東京で書かれたと記されています。八雲はそこで、収めた話の多くは『夜窓鬼談』『仏教百科全書』『古今著聞集』『玉すだれ』『百物語』といった古い日本の本から取ったと説明しました。一部は中国に由来するかもしれないとも書いています。
そのうえで八雲は、「雪女」という奇妙な話は、武蔵の国、西多摩郡調布の農夫が、自分の生まれた村の伝説として語ってくれたものだと記しました。英語の原文では「a farmer of Chōfu, Nishitama-gōri, in Musashi province」という表現です。さらに、この話が日本語で書かれたことがあるかどうかは知らないが、話に記録された不思議な信仰は、かつて日本のほとんどの地方にさまざまな形で存在していた、と続けています。
八雲は「Whether it has ever been written in Japanese I do not know」と、日本語で書かれた文献があるかどうかは知らないとはっきり断っています。ほかの話の多くが古い本からの再話とされるのに対し、「雪女」は人から聞いた話だと明記されている点が特徴なのです。
この一行は、雪女の出どころを考えるうえで大きな手がかりになりました。県立長野図書館がレファレンス協同データベースに登録した事例では、『小泉八雲事典』の「雪女」の項目で牧野陽子氏が指摘している点が紹介されています。八雲が以前から雪女伝説に言及していたことや、この話を書き留めていないこと、さらに昭和以降に採取された豪雪地帯の民話の中に、八雲の作品にそっくりなものがかなり見られることです。
同じ事例では、『日本昔話通観』で「雪女」の昔話の類型を調べた結果も紹介されています。福島や、富山・石川・福井、山梨・長野の巻には見つかった一方で、東京と埼玉を含む巻には、この雪女の昔話は収められていなかったそうです。武蔵の国の伝説とされながら、地元の昔話集には残っていないことになります。
AERA DIGITALの記事は、遠田勝氏の『雪女百年の伝承』(2023年)を取り上げ、八雲の「雪女」がいつのまにか「日本の民話・昔話」になっていった経緯が解説されていると紹介しています。雪国の昔話として知られる雪女の話の中には、八雲の作品が広まったあとで語られるようになったものもある、という見方です。どちらが先かを一つに決めるのは難しいものの、序文の一行が議論の出発点になっているのは確かでしょう。
舞台の「調布村」はどこ?
序文にある「西多摩郡調布」は、今のどこにあたるのでしょうか。図書館の調査と青梅市の資料から、2つの説と、物語に出てくる渡し場の手がかりを確認します。
青梅説と調布説の根拠
調布市立図書館がレファレンス協同データベースに登録した事例では、まず『角川日本地名大辞典 13』で地名を確かめています。それによると、西多摩郡調布村は現在の青梅市です。今の調布市は、以前は北多摩郡調布町だったと記載されていました。名前は同じ「調布」でも、郡が違う別の場所なのです。
ただし同館は、舞台については青梅市とする説と、調布市とする説の両方があるとして、それぞれの文献を紹介しています。調布市説の例として挙げられているのは、『野田宇太郎文学散歩 第7巻』の「調布と小泉八雲の「雪女」」の章です。そこには、西多摩郡は北多摩郡の間違いで、現在の調布市だという記述があるそうです。『多摩文学紀行』なども、舞台を調布とする文献として並んでいます。
青梅市説を支える資料としては、『多摩のあゆみ』第108号が挙げられています。県立長野図書館の事例によると、八雲の孫にあたる小泉時氏の「身内からみた小泉八雲と『雪おんな』の考察」で、青梅出身のお手伝いさん親娘が縁となって、青梅にまつわる雪女伝説が『怪談』に取り入れられたとしているとのことです。『多摩のあゆみ』第67号の「男井戸と女井戸」という話にも、青梅の雪女伝承の記述があると紹介されています。
2002年には、昭和レトロ商品博物館が編著した『雪おんな』がクレインから刊行され、作品の舞台を青梅と断定するまでの経緯が書かれているそうです。新聞でも、2001年10月27日の朝日新聞多摩版に「舞台は意外、青梅だった」、2002年3月18日に「青梅は『雪女』の舞台 商店主ら石碑建てる」という記事が載ったと、同じ事例に記録されています。調布市立図書館の事例には、同館の『図書館だより』119号の「最近のレファレンスから」で、雪女の舞台についての問い合わせに青梅市と回答した例を紹介したことも書かれています。大澤隆幸氏の論文「雪女はどこから来たか」(2005年)も、参考文献として挙げられていました。
青梅市郷土博物館が所在地となっている「青梅市文化財ニュース」第426号(令和5年4月発行)も、青梅周辺には雪女の舞台となったとの説があると書いています。旧調布村、現在の長淵地区に関係者が住んでいたことから、調布橋のたもとに碑が建てられたという説明です。説が2つある以上、断定はできませんが、地名辞典の記載と地元の伝承の両方がそろっているのが青梅説の特徴といえます。
渡し場と多摩川の風景
物語では、森へ行く途中に大きな河があり、渡し船があったことが重要な場面になっています。橋を架けても洪水のたびに流されてしまう急流だった、という描写です。巳之吉と茂作が避難したのも、この渡し場の渡し守の小屋でした。
英語の原文では、この部分は「On the way to that forest there is a wide river to cross; and there is a ferry-boat.」と現在形で書かれています。続く「No common bridge can resist the current there when the river rises.」も、河が増水したときには普通の橋では流れに耐えられない、という土地の様子を説明する書き方です。昔の出来事を語りながら、渡し場は今もそこにあるかのように描かれているのです。
青梅市が作成した冊子「青梅の妖怪と伝説」では、『怪談』の「雪女」の舞台は「千ヶ瀬の渡し」であるという説があると紹介しています。千ヶ瀬は多摩川沿いの地名で、付近の調布橋に「雪おんな縁の地」の碑が建てられたとも書かれていました。冊子は、雪女の場所として「調布橋付近」と「昭和レトロ商品博物館」の2か所を載せています。
国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている記事では、碑の場所について、JR青梅駅から南東方向に約1.5キロ下り、旧青梅街道から分かれた秋川街道が多摩川を渡る調布橋のたもと(左岸側)にあると書かれていました。このあたりは緑が濃く、深い渓谷そのもので、多摩川も青く澄んで水の勢いがあり、上流は雪女にふさわしい感じだとつづられています。
碑の写真や碑文を紹介しているウェブサイトによると、調布橋のそばの碑には、1889年(明治22年)に周辺の6つの村落が合わさって「調布村」が成立し、村名は織物が盛んだったことにちなむと記されています。当時は渡し舟で川を渡っていたものの、水量が増えると船が止まってしまうため、有志によって幅約3mの吊り橋が架けられたそうです。初代の調布橋の完成は1922年(大正11年)とされます。
物語の「渡し場」と「流される橋」は、こうした多摩川の渡しの歴史と重なって見えます。ただし、八雲は本文で「武蔵の国のある村」としか書いておらず、具体的な渡し場の名前は出てきません。現地を訪ねるときは、確定した舞台ではなく、伝説ゆかりの地として風景を味わうのがよいでしょう。
青梅で雪女ゆかりの地を歩くには?
最後に、青梅で実際に雪女ゆかりの場所を歩くときの回り方です。碑と展示のある博物館の2か所を、青梅市の資料と観光協会の情報で確認します。
雪おんな縁の地の碑
「雪おんな縁の地」の碑は、青梅市千ヶ瀬町5丁目の調布橋付近にあります。青梅市の冊子「青梅の妖怪と伝説」では、交通は青梅駅から徒歩15分と案内されています。青梅市文化財ニュースによると、碑は平成14年(2002年)に建てられました。調布市立図書館の事例に記録された2002年3月18日の朝日新聞の見出しは「青梅は『雪女』の舞台 商店主ら石碑建てる」で、地元の商店主らが中心になって建てた碑だとわかります。国立国会図書館デジタルコレクションの記事では、碑は調布橋のたもとに横に寝かせた形で置かれていると書かれていました。
碑の裏面には、「武蔵の国、西多摩郡調布村の ある百姓がこの土地に伝わる言い伝えとして語ってくれたものである。」という銘文があります。これは『怪談』の序文の一節にあたる言葉です。碑の前に立って序文の一行を読み比べると、八雲が書いた言葉が、120年あまりたって地元の石に刻まれていることが実感できるはずです。
冊子には、雪女の話のあらすじも載っています。武蔵の国の木こりの老人と少年が吹雪の夜に渡し場の小屋へ避難し、白装束の女が老人を凍死させ、若い巳之吉にだけ口止めをして去るという流れです。その後の結婚と正体の発覚、子どもたちのために命までは奪わずに去る結末まで、短くまとめられていました。
「青梅の妖怪と伝説」には、雪女のほかにも市内の伝承地が番号付きで紹介されています。常保寺の猫地蔵や住吉神社の流転のサル人形、宗建寺のあずき婆、友田レクリエーション広場付近の権左淵の河童、大幡神社のデイダラボッチなどです。冊子は、掲載したもの以外にも市内には多くの伝承が語り継がれていると書いています。雪女の碑とあわせて回れば、青梅の妖怪めぐりとして1日楽しめるでしょう。
また、レファレンス事例で紹介されていた「男井戸と女井戸」も、冊子では弘法大師ゆかりの場所として載っています。『多摩のあゆみ』第67号では、この話の中に青梅の雪女伝承の記述があるとされていました。碑だけでなく、こうした伝承地もあわせて訪ねると、雪女の話が青梅の土地とどう結びつけられてきたのかが見えてきます。
調布橋のあたりは多摩川沿いの道なので、冬に訪ねる場合は足元や川辺に気をつけたいところです。碑は屋外にあるため、天気のよい日の昼間に、川の流れと合わせて眺めるのがおすすめです。
昭和レトロ商品博物館の雪女の部屋
もう一つの見どころが、昭和レトロ商品博物館の2階にある「雪女の部屋」です。青梅市観光協会のおうめ観光ガイドによると、同館は昭和30年から40年ごろのお菓子や薬などの商品パッケージを中心に、おもちゃやポスター、ドリンク缶など懐かしい生活雑貨を展示しています。もとは家具屋だったという木造の建物です。
青梅市文化財ニュースによると、同館は平成10年(1998年)の「招き猫たちの青梅宿」のあと、商店街の空き店舗対策事業の一つとしてオープンしました。青梅駅周辺はその後、猫のオブジェや昭和の映画看板が見られる町として知られるようになり、東の谷中に対して「西の猫町」と呼ばれています。
2階では、小泉八雲の怪談「雪女」の原点が青梅に伝わる伝説にあったという資料が展示されていると紹介されています。住所は青梅市住江町65で、JR青梅駅から徒歩4分です。入館料は大人350円、小中学生200円で、開館日は金曜、土曜、日曜と祝日、月曜から木曜は休館となっています。
青梅市文化財ニュースによると、雪女の部屋には多くの資料が展示されているため、いろいろな地域から学生や研究者がよく訪れるそうです。国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている訪問記では、急な木の階段を上がった先の約6畳の薄暗い部屋で、大人の背丈ほどの雪女が出迎えてくれると書かれていました。
その訪問記によると、部屋には紙芝居のような展示があり、小さな紙人形で物語の場面が並べられています。川辺の小屋の囲炉裏端で2人の木こりが寝ている場面から、白い姿の女が年寄りに息を吹きかける場面、明かりのついた部屋で縫い物をする女、立ち去った女を子ども連れの夫が戸口で見送る場面までが配置されているそうです。伝説にまつわる本や、このあたりの昔の写真なども所狭しと置かれているとのことでした。
同館は住吉神社のある住江町にあり、駅からの散策の起点になります。駅から博物館に寄ってから、南東の調布橋へ歩いて碑を見る順番にすると、展示で物語を確かめてから現地の風景を見ることができます。開館日が週末中心なので、訪ねる前には観光協会のページや館の発信で最新の情報を確認しておきましょう。
まとめ
小泉八雲の「雪女」は、吹雪の夜に渡し守の小屋で白装束の女に出会った巳之吉が、口止めの約束を守り続け、10人の子の母となったお雪にその夜のことを話してしまう物語です。お雪は子どもたちのために巳之吉を殺さず、白い霞となって去っていきます。
この話を収めた『怪談』は1904年4月に出版され、八雲は序文で、雪女の話は武蔵の国西多摩郡調布の農夫から聞いた村の伝説だと書きました。図書館の調査では、西多摩郡調布村は現在の青梅市にあたるとされる一方、調布市とする説もあり、八雲の作品が広まったあとで各地の昔話になったという見方も紹介されています。
青梅市には、調布橋付近の「雪おんな縁の地」の碑と、昭和レトロ商品博物館の「雪女の部屋」があります。青空文庫の田部隆次訳で物語を読んでから、序文の一行を手がかりに多摩川の風景を歩くと、雪女の話をより立体的に楽しめるでしょう。